2021年05月21日
朝乃山
「大相撲」という、神事でありながらスポーツとも言える社会での出来事ということで、思うことがあります。
大関、朝乃山。
彼くらいの世代なら、おねえちゃんがいるお店で酒を飲みたいという欲求にかられるのは、なんら不思議でも不自然でもありません。
でも、ルールを守ることはしなくてはいけません。
決められたルールがあるから、社会の秩序が保たれています。人間に与えられた欲求のまま行動すれば、社会秩序は乱れ、ときに犯罪の多い社会となります。
多くの人間は理性に基づき行動します。
おねえちゃんと酒を飲みたいという欲求が悪なのではなく、ルールで定められた行動規範に反したことが悪なのです。日本大学の先崎先生の言葉をお借りすれば、「人間とは、そういう奥深い生き物」です。奥深いとは、決して理性だけで正しい行動を常に選択できるわけではない、という意味に理解しています。
彼に何が足りなかったと言えば、明らかに周囲の指導です。「そのことについては常々言っていた」とか「もはや大人なんだから・・」というのは、言い訳にもなりません。
その行動をすることによって、後の影響がどうなるかくらいは想像がつくはずです。しかし、想像が現実になったとき、後悔してももはや遅きに失しています。
指導とは、「指し、導く」と書きます。行く先の未来を理解させ、誤った方向ではなく正しい方向に導くことが指導です。教育現場の指導も、一般社会の指導も、道路交通上の安全指導も、概ね方向性は同じです。
「おい、いまキャバクラなんか行ったら、たいへんなことになるぞ!」
と、部屋の師匠たちは言ったかもしれません。(そこまでは存じ上げませんが)
しかしながら、これを指導とは到底言えません。これを指導だと理解するのには明らかに不足しています。
各界のしきたりや、大相撲の世界の独自のルールまでは知りませんが、少なくともそれ以前に人間としての行動、一人の人間として社会の中で生きていく心構えが足りないと考えます。
そもそもそういうルールなのだから、ウンもスンもなく「行ってはいけない」のですが、どうも人間というのは「そこを何とか・・」という気持ちがどうしても芽生え、自分がこうすればルールを守ったうえで欲求を満たすことができるのではないか、と考えてしまいます。
そういう生き物です。人間て。相手がおねえちゃんかどうかは関係なく、自分の欲求を満たすためにする行動について、それを制限するルールがあるならば自分の都合の良いように拡大解釈してしまうのです。
ルールの中心にいる人(行動を制約されている自覚がある本人)が、その枠を自分本位に広げようとするとき、一線を越えていることに気付くのは、実際に行動をしてしまって社会的制裁を受けた後(風船を膨らませ続けて破裂した後、端的に言えば今の朝乃山)にしかなりません。
風船が破裂する前(ルールに則った行動制限を逸脱する前)に、考えを改めさせてこそ周囲の指導が実ったと言えます。
つまり、指導の成果は見えづらいのです。教育とか指導って「やったよ!できたよ!」もあれば「何もなかった」ことも、ある意味指導の成果があったと言える場面があるからです。
くり返しそのことについては言い続け、それでも破ってしまったのだから・・と指導する側も非を認めるから、いくら大人(未成年ではない)であっても、ルールを破った本人と指導する側の(この場合は師匠になるのかな)責任は免れらないのです。
よく、いい大人なんだから責任は本人に負わせればいい、という議論もありますが、これは法律上というよりも社会的責任を当該業界がどう考えるかという視点で語られるべきであって、それこそ周囲がとやかく言う問題ではありません。
おそらく朝乃山の厳罰は免れず、師匠の監督責任も問われるでしょう。でも問題の本質は、指導とはどういうことかであり、もっと言えば人間とは「そういう生き物」だからという原点に立って指導を考えないと、この先も多かれ少なかれ繰り返されていくのであります。
それでも、そこをいくら追及しても、さらに自己欲求を満たすためにルールを守っていると勘違いしたままルールを犯すのが人間だと、ウイルスが変異しながら増殖するのと同じく、人間の性悪もまた進化していくのです。
そういえば、おねえちゃんのいるお店。私も昨年の1月13日(知人の結婚式の二次会)に行って以降、立ち寄れていません。それはそれで罪悪感があります。なぜなら、四半世紀近いお付き合いをさせてもらっている間柄。コロナ禍で飲食業界が苦しい現実に見舞われていることを知っていて、お店に行けないのですから。
以前にここでも書きましたが、飲食業界でもレストランのように食事のテイクアウトを取り入れてなんとか頑張っているお店もあります。でも、おねえちゃんのお店でテイクアウトはできないのです。
朝乃山の行動からあえて何か学べとしたのなら、やっぱ何かガマンすべきところはガマンしろと、これが全世界共通で平等に与えらえた条件ではないでしょうか。
もう一つ、指導が行き届かない社会にしてしまったのは、教育をカネ勘定して予算を削るような思考の財務省、そしてそのような公費による教育への負担を減らした、いつぞやの内閣の構造改革にあるわけ。(ーー;)先生たちの中には、そういった人間教育を大事にする人がたくさんいますよ。
構造改革真っただ中を生きてきた世代の教員たちも、もはや定年退職が迫ってくる頃となっています。効率重視で育ってきた世代の教員が行う指導というものを、いましっかり見守ってあげないと。必要な無駄を生かすことがどうも苦手なようで・・。
大関、朝乃山。
彼くらいの世代なら、おねえちゃんがいるお店で酒を飲みたいという欲求にかられるのは、なんら不思議でも不自然でもありません。
でも、ルールを守ることはしなくてはいけません。
決められたルールがあるから、社会の秩序が保たれています。人間に与えられた欲求のまま行動すれば、社会秩序は乱れ、ときに犯罪の多い社会となります。
多くの人間は理性に基づき行動します。
おねえちゃんと酒を飲みたいという欲求が悪なのではなく、ルールで定められた行動規範に反したことが悪なのです。日本大学の先崎先生の言葉をお借りすれば、「人間とは、そういう奥深い生き物」です。奥深いとは、決して理性だけで正しい行動を常に選択できるわけではない、という意味に理解しています。
彼に何が足りなかったと言えば、明らかに周囲の指導です。「そのことについては常々言っていた」とか「もはや大人なんだから・・」というのは、言い訳にもなりません。
その行動をすることによって、後の影響がどうなるかくらいは想像がつくはずです。しかし、想像が現実になったとき、後悔してももはや遅きに失しています。
指導とは、「指し、導く」と書きます。行く先の未来を理解させ、誤った方向ではなく正しい方向に導くことが指導です。教育現場の指導も、一般社会の指導も、道路交通上の安全指導も、概ね方向性は同じです。
「おい、いまキャバクラなんか行ったら、たいへんなことになるぞ!」
と、部屋の師匠たちは言ったかもしれません。(そこまでは存じ上げませんが)
しかしながら、これを指導とは到底言えません。これを指導だと理解するのには明らかに不足しています。
各界のしきたりや、大相撲の世界の独自のルールまでは知りませんが、少なくともそれ以前に人間としての行動、一人の人間として社会の中で生きていく心構えが足りないと考えます。
そもそもそういうルールなのだから、ウンもスンもなく「行ってはいけない」のですが、どうも人間というのは「そこを何とか・・」という気持ちがどうしても芽生え、自分がこうすればルールを守ったうえで欲求を満たすことができるのではないか、と考えてしまいます。
そういう生き物です。人間て。相手がおねえちゃんかどうかは関係なく、自分の欲求を満たすためにする行動について、それを制限するルールがあるならば自分の都合の良いように拡大解釈してしまうのです。
ルールの中心にいる人(行動を制約されている自覚がある本人)が、その枠を自分本位に広げようとするとき、一線を越えていることに気付くのは、実際に行動をしてしまって社会的制裁を受けた後(風船を膨らませ続けて破裂した後、端的に言えば今の朝乃山)にしかなりません。
風船が破裂する前(ルールに則った行動制限を逸脱する前)に、考えを改めさせてこそ周囲の指導が実ったと言えます。
つまり、指導の成果は見えづらいのです。教育とか指導って「やったよ!できたよ!」もあれば「何もなかった」ことも、ある意味指導の成果があったと言える場面があるからです。
くり返しそのことについては言い続け、それでも破ってしまったのだから・・と指導する側も非を認めるから、いくら大人(未成年ではない)であっても、ルールを破った本人と指導する側の(この場合は師匠になるのかな)責任は免れらないのです。
よく、いい大人なんだから責任は本人に負わせればいい、という議論もありますが、これは法律上というよりも社会的責任を当該業界がどう考えるかという視点で語られるべきであって、それこそ周囲がとやかく言う問題ではありません。
おそらく朝乃山の厳罰は免れず、師匠の監督責任も問われるでしょう。でも問題の本質は、指導とはどういうことかであり、もっと言えば人間とは「そういう生き物」だからという原点に立って指導を考えないと、この先も多かれ少なかれ繰り返されていくのであります。
それでも、そこをいくら追及しても、さらに自己欲求を満たすためにルールを守っていると勘違いしたままルールを犯すのが人間だと、ウイルスが変異しながら増殖するのと同じく、人間の性悪もまた進化していくのです。
そういえば、おねえちゃんのいるお店。私も昨年の1月13日(知人の結婚式の二次会)に行って以降、立ち寄れていません。それはそれで罪悪感があります。なぜなら、四半世紀近いお付き合いをさせてもらっている間柄。コロナ禍で飲食業界が苦しい現実に見舞われていることを知っていて、お店に行けないのですから。
以前にここでも書きましたが、飲食業界でもレストランのように食事のテイクアウトを取り入れてなんとか頑張っているお店もあります。でも、おねえちゃんのお店でテイクアウトはできないのです。
朝乃山の行動からあえて何か学べとしたのなら、やっぱ何かガマンすべきところはガマンしろと、これが全世界共通で平等に与えらえた条件ではないでしょうか。
もう一つ、指導が行き届かない社会にしてしまったのは、教育をカネ勘定して予算を削るような思考の財務省、そしてそのような公費による教育への負担を減らした、いつぞやの内閣の構造改革にあるわけ。(ーー;)先生たちの中には、そういった人間教育を大事にする人がたくさんいますよ。
構造改革真っただ中を生きてきた世代の教員たちも、もはや定年退職が迫ってくる頃となっています。効率重視で育ってきた世代の教員が行う指導というものを、いましっかり見守ってあげないと。必要な無駄を生かすことがどうも苦手なようで・・。
2021年05月21日
分かっていたけどね
毎朝の目覚ましは、4時50分にテレビがつくようにしています。
私の場合、BSフジにチャンネルをセットします。すると、目覚めに心地いいヒーリング音楽が流れます。5時になると天気情報番組が始まります。
目覚めが良いときは、この4時50分から5時の間に起き上がることができます。
遅くても5時10分までには起き上がります。
スマホのタイマーを5時にセットし、音は出さずにバイブレーターを振動させます。テーブルの上に直置きしているので、耳障りのよくない振動音を止めるために起き上がらざるを得ない、こういうシステムになっています。(^^;
しかしながら、今朝のように雨がひどいと、当然のようにBSの衛星電波は受信できません。テレビの電源は入るだけで、映像も音も出ません。スマホの振動も、雨音にかき消されます。
ということで、昨晩の時点では、今朝はいつも通り起きてストレッチと三本ローラーでひと汗かく予定でしたが、起床時間が6時40分ではどうすることもできませんでした。(ーー;
まぁそんな日があってもいいじゃないかと。
やっぱり雨の日は気分も晴れないのね~。(^^;
私の場合、BSフジにチャンネルをセットします。すると、目覚めに心地いいヒーリング音楽が流れます。5時になると天気情報番組が始まります。
目覚めが良いときは、この4時50分から5時の間に起き上がることができます。
遅くても5時10分までには起き上がります。
スマホのタイマーを5時にセットし、音は出さずにバイブレーターを振動させます。テーブルの上に直置きしているので、耳障りのよくない振動音を止めるために起き上がらざるを得ない、こういうシステムになっています。(^^;
しかしながら、今朝のように雨がひどいと、当然のようにBSの衛星電波は受信できません。テレビの電源は入るだけで、映像も音も出ません。スマホの振動も、雨音にかき消されます。
ということで、昨晩の時点では、今朝はいつも通り起きてストレッチと三本ローラーでひと汗かく予定でしたが、起床時間が6時40分ではどうすることもできませんでした。(ーー;
まぁそんな日があってもいいじゃないかと。
やっぱり雨の日は気分も晴れないのね~。(^^;